夏期セミナー 2002年8月25日

                  21世紀におけるこれからの暮らしを考える

                          −戦争の記憶と平和の思い−

                                                                    吉 田 総 夫

 

はじめに

 20世紀は「戦争と革命の世紀」と呼ばれていますが、幸いなことに日本は、
太平洋戦争後はまがりなりにも長い間平和を継続させてきました。
しかし21世紀にはいっても相変わらず世界のあちこちでは戦争が続いています。

 戦争と平和の問題も、人口問題や資源問題、地球規模で深刻化しつつある
環境問題と同様に20世紀から21世紀に持ち越された大きな社会的課題です。

 ただ、この問題は一般的に論じてもあまり実りのないのは、単に戦争は
こりごりだとか、反対だけではどうにもならない複雑な国際・国内状況があるからです。
その上、戦後半世紀以上も経って、いわゆる戦争を知らないというか
知らされてこなかったと言うべきでしょうが、これらの世代が大半を占めるように
なったことです。
また戦争責任について、ドイツとよく比較されますが、日本では
正面切って政府と国民が取り組んでこなかったことがあります。

これは戦後、天皇制が残され、戦争中の日本国の最高責任者であった昭和天皇の退位が
なかったことがいっそうこの問題を複雑にさせてきました。天皇制の問題は現代でも
戦前と同じとは言えませんがやはり批判は暗黙のうちにタブーになっているのです。

 こういう状況を見ると、私は世代、地域、職種などによっておおきく違っている
戦争の記憶を手がかりに考えてみたいと思います。私の記憶と言っても1945年8月は
まだ4歳であり、ほとんど戦争中の記憶がないのは当たり前です。
むしろ戦後の食糧難の時代と町の様子、戦後の民主教育をまじめに受けた世代
としての記憶です。

さらに両親、親戚、兄たちや、戦地から無事に還ってきた将校ではない兵士たちの話、
そして戦後にあふれたさまざまな戦記物や戦争を描いた多くの映画が私の戦争の記憶を
形作っているように思います。

その後これまでの長い間、多くの小説や評論の類の本、雑誌、新聞などを読むように
なってからは、自分の生まれ育った国である日本の歴史、日本人、日本語について
世界のさまざまな国と人との対比の中で考えるようになりました。

また小学校4年時に起こった朝鮮戦争のこと、大学時代のベトナム戦争のことが
戦争についての新たな記憶を形成しています。

 ここでは、私の戦争の記憶を語るのが目的ではなくて、この記憶が元になって、戦争
について語っている、書いている人々の声や文に共鳴したものを述べていくことで
戦争と平和と言うことについて考えたいと思います。

1.死者の記憶

 戦争というと、戦死者のことが話題になります。また戦争では空襲での死者の数が
語られます。広島と長崎での原爆投下の被害も死者何万名となり、生き残った人々の
記憶になります。ドイツではアウシュヴィッツに代表されるユダヤ人の大虐殺が
もっとも大きな死者の記憶です。

それは戦争の被害が人の命をもっとも奪うものだからだと思います。

どんな伝染病も事故も火山の爆発も大地震も近代戦争ほどの人命被害を出したことは
ありません。歴史上最悪といわれる14世紀中世ヨーロッパのペスト(黒死病)の大流行
では、死者は3人に1人といわれ、ヨーロッパでは
3500万人、その他を加えると、
ほぼ
300年の間に全文明世界で6000万〜7000万人の死者を算したといわれます1)。

 第二次世界大戦は、それまでの戦争とくらべても比較にならないほど規模も大きく、
もたらした被害も甚大でした。表1に示すように欧米諸国の死者は
4000万に達し、その
半分以上がソ連でした。それはロシア革命後の内戦の
1000万人、スペイン内戦の60万人、
第一次大戦の
770万人に比べても、比較にならない大きさです。

アジアの死者も3000万人(その中で中国は1000万人以上)を越えているといわれます
。日本の場合は、表2のように、ごく限られた範囲での死者は
233万人、在外邦人、
シベリア抑留者の死者などを加えれば死者のみで
250万人に達します。総人口に対する
比率は
3.5%になります2)。

      

表1 欧米諸国での第二次世界大戦の人命の損失(死者)2) (単位:万人)

   ────────────┬───────┬──────┬─────┬────        

         国  名              総 計   │人口比率(%)   軍人    一般市民        

   ────────────┼───────┼──────┼─────┼────        

    ソ連                  2060 ~ 2130   10.4 ~ 11.0    1360  700 ~ 770       

  ドイツ                       685             9.5     325  360 ~ 381       

    イギリス                      38.8           0.8      32.6       6.2      

     フランス                     81             1.9      34         47        

     ポーランド                  612.3          17.2      12.3      600        

     ユーゴスラヴィア            170.6          10.9      30        140        

     ハンガリー                   42             3.0                       

     ギリシャ                     52             7.2                       

     ルーマニア                   46             3.4                       

     オーストリア                 48             7.2                       

    イタリア                      41             0.9       33          8       

    チェコスロヴァキア            40             2.7                       

    その他のヨーロッパ諸国         4                                    

     ヨーロッパ諸国計           4000                                           

     アメリカ合衆国               29.5            0.4                           

   ────────────┴ ──────┴──────┴─────┴────        

       )Alan Bullock, Hitler and Stalin: Parallel Lives, Harper Collins, 1981

 

                         表2 太平洋戦争における死者2)  (単位:万人)

               ─────────────┬─────────────                  

                        軍  人             193.2                                    

                           陸 軍              146.6                                  

                           海 軍               46.6                                  

                        一 般 市 民         39.3                                   

                           内 地               29.9                                  

                           沖 縄                9.4                                  

                        総  計              232.5                                   

               ─────────────┴─────────────                  

           注)経済安定本部推計、沖縄は沖縄県推計

               このほかに、外地(満州開拓団、シベリア抑留者等)の

           死者は20万人に近いと推定されるが詳細は不明

 

 ところでこれらの死者の統計表から洩れているものがたくさんあります。戦争中の
栄養不良で病死したり、餓死したものはもちろんのこと、戦後になっての戦争が原因で
亡くなったものは、たとえ原爆症であってもこれらの統計に入っていません。戦傷が
原因での病没など、それらの数を推計すると
700万人に達すると考えられています。

 しかし、統計上の死者の数を数えてもそれが本当に戦争に対する見方を深くさせる
ものでしょうか。人という種は、歴史上これだけの死者の体験を重ねても、相変わらず
戦争の準備に余念がないのが現状です。

 死んだ母が、他人の冷たさをあらわすのに、「人の痛みは三年でもしんぼうできる」と
よく言っていたものです。他人の死は、自分の身内や知り人の死でない限り、持続的な
悲しみやあるいは怒りになりにくいものです。今現在、遠い中近東にあるパレスチナでは
イスラエルの圧倒的な軍事行動によって毎日多くの市民が殺されており、またイスラエルの
町ではパレスチナの若者による自爆テロでのイスラエル人の死者がでていますが、ほとんどの
人にとっては他人事なのです。

 

    遺棄死体数百といひ数千といふ

        いのちをふたつもちしものなし     (土岐善麿)

 

新聞記者であった土岐は、戦場の記事を書く後輩に対してこの歌を教訓にするように
言ったということです。1945年3月10日の東京大空襲で死者8万余人といっても、
8万余人の命が失われたというよりは、まちがいなくそれだけの数のひとりひとりの命が
失われたのだと思うのです。

   喜寿にして初めてもらす父の願いは朝鮮(北)に埋めし子の墓参とう  (坂村全子  84.9.23

   兵舎より送り来し荷は夏物も冬物もありて父は戦死す                (石井準一 84.7.22

                                      (出所)  家永三郎「戦争責任」より 朝日歌壇抜粋

 

 一人の中学生が、大阪の軍需工場に勤労動員ではたらいていた。すさまじい空襲、爆弾が
工場にいくつも落ちた。彼は死んだ。残したノートに書きしるされた文字。

    芋でない

  ほんとうの飯を

  腹一杯たべたい

  心の中を歌う

  詩と言うものを

  一度作ってみたい

  そしてゆっくり眠りたい

                       (寿岳章子:朝日新聞 1989.8.25

 敗戦の年、3月14日にB29による大阪大空襲がありました。都市部に対する焼夷弾による
密集市街地じゅうたん爆撃は、ドイツのハンブルグへのじゅうたん爆撃の指揮官として成果を
あげたルメー少将の立案によるものです。3)

 戦争中の私の家は、田舎の村でしたが、東洋一と言われた吹田操車場の近くにあったため、
操車場の空襲で村に焼夷弾が落ちてきたそうです。大阪空襲では被災にあった人たちが大阪市内
から逃げてきました。履き物がなくて裸足で逃げようとした人が道路に飛び散ったガラスの破片で
逃げ遅れた話が伝わってきました。

戦後、母が言うには、私はどんなに寝ていても夜中の空襲警報で母が起こすとすぐに起きあがって、
枕元にある防空ずきんと草履を持って家の前の防空壕に入ったそうです。4歳でしたが私には
防空壕に置いてあったタンスの前でじっと座っていた記憶が残っています。

 母の里である和歌山では、和歌山城を目標にした空襲で若い姪の一家が亡くなり、母や祖母は
骨も見つからなかったとよく嘆いていました。戦地から遺骨のない箱だけが還ってきた家もあり
ました。

 今でもラバウル、ソロモン群島、マーシャル群島、トラック島、サイパン(バンザイ・クリフ
のあるところである)、テニアン、グアムなどのマリアナ諸島、硫黄島、レイテ島、ルソン島、
ニューギニアなどの戦場となった太平洋の島々や海底では、多くの兵士の遺骨が残されたままです。
井上ひさしは
200万人の遺骨が残されていると言っています。これらの島の名前を読んで戦争の
記憶を新たにする世代の方も少なくないと思います。

 

 <骨のうたう>   詩 竹内浩二、 曲 小園弥生

  戦死やあわれ

  兵隊の死ぬるや あわれ

  遠い他国で、ひょんと死ぬるや

  だまって、だれもいないところで

  ひょんと死ぬるや

  ふるさとの風や

  こいびとの眼や

  ひょんと消ゆるや

  国のため

  大君のため

  死んでしまうや

 

 その心や

 白い箱にて 故国をながめる

  音もなく なんにもなく

  帰っては きましたけれど

  故国の人のよそよそしさや

  自分の事務や女のみだしなみが大切で

  骨は骨 骨を愛する人もなし

  骨は骨として 勲章をもらい

  高く崇められ ほまれは高し

  なれど 骨はききたかった

 

  絶大な愛情のひびきをききたかった

  絶対的な愛情のひびきをききたかった

  がらがらどんどんと事務と常識が流れ

  故国は発展にいそがしかった

  女は 化粧にいそがしかった

  ああ 戦死やあわれ

  兵隊の死ぬるや あわれ

  こらえきれないさびしさや

  国のため

  大君のため

  死んでしまうや

  その心や

1945年竹内が21歳でフィリピンにて作詩 「労働情報」85.8.15日号)

 同じことは、戦場となった中国大陸だけでなく、シベリアの大地にも
朽ちたまま放置されています。たとえこれまで何千体かの遺骨が収集
されていても。

 以上までの話はすべて戦争被害による日本人の死者のことです。
日本人の被害のことは比較的記憶に鮮明に残っても、日本が起こした
太平洋戦によるアジア諸国の人々の被害についての研究・調査は有志に
よるものはわずかにあるものの、大規模な調査はこれまでまったくなさ
れていません。
むしろその点ではドイツでは国(西ドイツ)によるいくつもの調査機関が
設立されて調査がなされてきました4)。

朝鮮併合の支配の実態、満州の植民地支配、中国での殺しつくす、焼きつくす、
奪いつくすと呼ばれた「三光作戦」、南京大虐殺、毒ガス作戦、731部隊に
よる人体実験、シンガポールでの虐殺、マニラでの略奪、バターン死の行進など
多くの日本人の記憶に残されていないことです。

 戦争の死者にこだわらなければならないのは、埴谷雄高が言うように5)
「戦争というものは単に指導者の問題ではなくて、戦争で死んだ死者が忘れられ
たときに新しい戦争が始まるから、本当の戦争は死者と生者の間にある。そして
死者が忘れられたときに生者がお互いに戦争を始める。」からです。

 

2.戦争の記憶

 記憶というものは、ニーチェが言うように都合よく変えられるものです。

   「それは、私がやった」と、わが記憶は言う。

   「そんなことを、私がやったはずはない」と、わが自尊心は強情に言い張る。

    結局、屈するのは記憶の方だ。

 今やひとつの歴史になりつつある太平洋戦争について私たち日本人はどれほどのことを
正確に記憶しているでしょうか。歴史の記憶ということですが、サーラ・スレーリが述べて
いるように6)、現状では古い世代は戦争の歴史を懐かしいものとして回顧し、一方で
若い世代は戦争の歴史に対する興味を失っているようです。

こうした二極化の現象は、日本だけでなく世界中で起きているようです。しかし問題は
その結果、現実のさまざまな問題に対しても無関心になってしまうことです。過去の歴史を
知らないことは、いま何が大事な問題なのか理解できなくなることです。歴史感覚の喪失は
古い世代も同じことで、若い世代もともに美化された虚構の戦争の歴史しか見ようとしない
ために、現実で進んでいる戦争への準備が見えなくなっているように思います。

 この国が抱えている社会的、政治的に大きな課題に対して容易に解決の道が見えない
今の時代は、多くの人にとって、とくに若い人にとってはどう生きていけばいいのか分から
ないという不安感があります。そうしたことが歴史に学んだり、まじめに考えたりするのは
時代遅れだとする反知性主義を育てていると思います。

このため不合理とわかっていてもオカルトに走ったりする若者や、世の中の不合理を正したり
するよりは、それが自分の利益になるようにうまく立ち回ることの生き方を選ぶのが楽だという
考えに陥るのです。そうしたことが太平洋戦争が侵略戦争であったという過去の事実に
目を閉ざしたり、意味もなく過去を美化したりすることにつながっていると思います。

 戦争の死者についてもどんな態度で記憶を呼び戻すかが大事だと思います。

 知覧特攻基地あとにある平和会館を訪れたイアン・ブルマは、記念館にあふれている写真、
手紙、説明文を見、年かさの見学者の女性がつぶやく「こんなに若いのに」の声を聞きながら
考えたことを、彼の著書のなかで次のように述べています。4)

 「特攻隊員が若くして死んだことだけが悲劇だというわけではない。戦争ともなれば
どこの国でも、兵士(と民間人)は若くして死ぬ。特攻隊の死の記憶をここまで痛ましいものに
しているのは、彼らの自己犠牲を美化するために湯水のごとく注がれるセンチメンタリズムである。
桜花や自己犠牲は当時の愛国的なスローガンだった。

彼らが心からそれを信じていなかったと考える根拠はなにもない。そこが問題なのだ。
彼らは、自らの死を喜ぶように育てられていた。若者らしい理想主義が逆手にとられ、無駄な企てに
動員された。しかし、今この平和会館では、その視点は完全に抜け落ちている。

 偽りの理想と糖分過多の感傷が、この施設の空気の一部になっている。・・・・・・ そして、なにより
重大なのは、特攻攻撃はまったくの命のムダ遣いであり、戦争を長引かせる役にしか立たなかった、
という事実が一顧だにされていないことである。ここでは、何千人もの特攻兵の死に、偽りの意義が
吹き込まれている。若者たちは平和と繁栄のために命を捧げた。彼らの自己犠牲は、愛国心の崇高な
見本である。」

 イアンはドイツの各地を訪れた結果、このような戦死者を感傷的に偲んだ慰霊碑や施設が
見られないこと、むしろ美化するためではなくホロコーストを恥じて、警告の碑や記念の施設を
作っていることに注目している。もちろんドイツでもホロコーストを忘れてしまいたいという衝動は、
ナチの世代に強かったが、それを許さない次の世代の力が強かったといえよう。

 死者の記憶について日本とドイツとの違いは、日本人の死生観にもよるだろう。岸田 秀は、これに
ついて次のようにうまくまとめている。

 「(日本では)日本人が人物を生前に何をしたかというより、どのような死に方をしたかで
評価する傾向がある。日本軍では、巧妙に戦って敵に大損害を与えた上で捕虜になった兵士は非難され、
無駄なことはわかっているのに猛然と敵陣に突っ込んで戦死した兵士は称賛されたが、そのような不合理が
日本軍の敗因の一つであると、以前にどこかで指摘したことがあるが、これも同じことである。

 要するに、日本人はある主張の是非を判断するとき、その主張が論理的に正しいかどうかというより、
主張者がその主張にどれほどの思いを込めているかを基準にする傾向がある。その主張に命を賭けている、
命を捨ててまで通そうとしたということがあると、それだけでその主張を重く見る。織田信長の乱行を
諫死した平手政秀とか、戦後日本の平和ボケを何とかしようとして諫死した(と思われる)三島由紀夫の
ような人物が現れるのは、そのためではないか。外国に諫死があるかどうか知らないが、あったとしても
大昔のことであろう。」7)

 戦争の記憶について美化、センチメンタリズムの他にもうひとつ考えておかなければならないことは、
言葉のあいまいな使い方です。

 戦争中の敗北による撤退を「転進」と呼んだりしたのはよく知られていますが、今でも戦死者のことを
英霊という言葉で呼ぶならわしがあります。

 教科書裁判で気骨を示した家永三郎は、「英霊」とは正当な戦争での功績ある戦死者を賛美する称呼であり、
後続の軍人への「英霊」となる覚悟を促すはたらきをもつ用語であり、「英霊」顕彰は将来の戦争への心理的布石
として役割を演ずることになろう。と述べて反省を促しましたが、それも実現しないまま今にいたっています。

また実態は戦争でも「○○事変」と呼んだように、今は「有事」という言い方です。自衛隊は軍隊ではないと
言ってきた人々のほとんどは、太平洋戦争は侵略ではなかったと主張し、「大東亜戦争」「大東亜共栄圏」と
呼ぶのを好みます。こういう言葉を侵略されたアジアの人々はどう取ってきたでしょうか。私はこういう
日本人の無神経さに唖然とする思いです。

 

3.戦争責任

 国の責任と言うことについて、1989年2月、共産党の議員が、第二次大戦は日本の侵略戦争だった
のかどうかと質問すると、首相の竹下登はそれは「後世の史家の判断にまつべき」だと答えたということです4)。
同じことは1991年にも起こりました。真珠湾攻撃の五十周年に際して、ホノルル市長がブッシュ大統領に、
日本人が戦争について謝罪するならば、という条件つきで日本人代表を招待したらどうか、と進言し、
そうなってはじめて「新しい時代」が始まる、と市長は言ったのです。日本政府はこれを拒否しました。

そして当時の石原官房副長官の次の発言が欧米に報道されました。

 「戦争はいろいろな原因があるが、不幸な事態を防げなかったという意味で、関係者全員、世界中の人が
反省しないといけない。戦争責任問題は、何十年、何百年たって、正しい判断が下される」
(朝日新聞 
1991/8/16

 イアン・ブルマは、『これではアメリカもあやまるべきだと、とれる。・・・・・ 一国のスポークスマンが、
自国に戦争を始めた責任があることをいまだに認めようとしない国を信用できるか、というアメリカ人の
気持ちはわかる。日本が言い逃れをするのを見ていると、ききわけのない子が、「なにも悪いことは
していない、みんながやってるじゃないか」とわめいて足をバタつかせる様子を連想させられる。
皆と同じだ、という主張はとりわけ奇妙に思える。日本人が、自分たちは文化、民族、政治、歴史の
すべての面で独特だ、というのを私たちはいつも聞かされているからだ。』4)と皮肉っています。

 1993年夏の総選挙で自民党の長期政権に終止符が打たれ、日本新党、社会、公明連立政権が
成立しました。首相となった細川(A級戦犯に指定されたのち自殺した近衛文麿の孫)は、1930年、
40年代における日本の軍事行動が「侵略戦争であり、間違った戦争だった」と政府として公に認めました
1993/8/10の記者会見)。このことは戦後初めて国の戦争責任について最初の一歩が踏み出されたように
思えたのですが、その後の政府の姿勢は、昔の自民党時代に戻ったというか、それ以上に悪くなったように見えます。

 昭和天皇の戦争責任について言えば、あるのが当たり前なのですが、1988年12月に天皇が癌
(この事実を日本のマスコミは報道しませんでした)で亡くなろうとしていたとき、自民党員であった
長崎市長本島等は、天皇の戦争責任についてどう思うかという質問に答えて、今から見てもごくまっとうな
返事をしたのに対して、右翼団体による背後からの狙撃で瀕死の重傷を負うという事件がありました。
このように日本では昭和天皇の戦争責任の問題はたいていヒステリックに扱われてしまいます。まさに
日本の常識が世界の非常識のよい例です。

 加藤周一は、「戦争と知識人」8)の中で、戦争責任の問題について、知識人と大衆との精神的なみぞの
深さを指摘しながら、知識人の戦争に対する精神の内的な問題としてとらえています。

 「『国民はだまされていた』とか『国民は何も知らされていなかった』という説明は国民の大多数に
通用するかもしれないが、知識人には通用しないだろう。

大衆は事実『知る』ことができなかったかもしれないが、知識人は『知る』ことができた。・・・・殊に
太平洋戦争が、満州事変以来とめどない冒険に向かってすべり出した軍国主義の結論にほかならないと
いう事実、天皇神格化の時代錯誤とそれに伴うすべての理性的思考の破産という事実は、もしその気
さえあれば、知識人の誰にとってもそれを知るための材料は、見事に、完全に、日常茶飯、眼の前に、
遺憾なく出そろっていた。・・・・『だまされていた』のはだまされていたいとみずから望んだからである。」
「大多数の場合に文学者が『聖戦』と書いたのは、その内心の考えの上でも、戦争に全く反対では
なかったからである。」

 ところで戦争を知らない世代の責任と言うことはどうなるのでしょうか。これについても
同じく加藤周一が次のように述べています。9)

 「『昔のことは水に流せ』―この言い分は、犠牲者に対しては通らない。・・・ しかし
『戦後生まれ』の人々、すなわち人口の大部分、には、戦争とそれに係る問題についての
責任がない、という考え方には、説得力がある。たしかに直接の責任はない。しかし間接の
責任はひき受けざるを得ないだろう、と私は考える。・・・・・

 遺産相続は都合の悪い部分を捨て、都合の良い部分だけを取るわけにはゆかない、という
議論もある。」

 しかし実状は、堤 清二が「戦争体験のない世代の消費者にとっては、民主主義、自由主義と
全体主義とはモードの違いと同じレヴェルで意識されることが多く、戦争体験が理論として深められ、
思想として反省されることがなかった。」10)と言うように、若い世代で戦争責任についてまじめに
考えている人は少ないでしょう。

 むしろ私は、戦争の記憶を持っている人々が、戦後、戦争のことをどう考えていたかをきちんと残す
ことが大事だと思っています。たとえば小沢昭一は、自伝史のなかで次のように述べています。11)

 「昭和23年の暮ちかく、私は雑司ヶ谷のバラックの六畳で、深夜、近くの巣鴨拘置所から、ちょうど
教会の鐘のような響きが伝わって来るのを聞いた。東条英機以下七名の戦犯の絞首刑が執行された夜だった。

 その時、母はもうすでに疲れてぐっすりと眠っていたが、病床に、寝あきてぼんやり目だけをあけていた
父と、その枕もとで本を読んでいた私とは、チラッと目を合わせたが、ただそれだけで、特に何かを語り合う
というようなことはなかった。戦争が終って三年たち、戦争のコッピドイ被害、犠牲から、まだ全く
立ち直れずにいる私たちだったが、戦犯の処刑に、ザマァミヤガレでも、あるいはオキノドクでもなかった。
『戦争責任』が誰に、どう問われようと、私たちは私たちの”生きる”ことだけを考えるのが精一杯
だったようだ。

 しかし、この日のことを私は、何故鮮明に記憶しているのだろう。それは恐らく、その日の意味を、
時がたつにつれてあれこれ少しずつ考え足して行ったからであろうと思われる。

 戦争責任──────                                                                  

 あの当時、アメリカは天皇を戦争犯罪人として裁かないことを決めた。それはそうすることが日本の占領
を成功させるカナメだと判断したからである。一方、戦犯の処刑にも同情の声があった。『戦争に負けたけ
れども、あの人たちは一所懸命祖国のために指揮をとったのではないか』という意見であった。

 ナサケナイことにひとびとは、いや私は、戦争の起こった、そして起こるべき根について深く考えず、
あるいは深く考えるいとまもなく、戦後の一日一日を、ただ生き抜くことに専心した。

 思えば、戦争時も、戦争自体を考えるいとまもなく戦争の毎日をただ一所懸命ガンバッタ。そして、
戦後も”戦後”を考えずにひたすらガンバッタだけではなかったか。

 このことを、私は、だんだん恐ろしいことだと思うようになる。」

 これまでに引用した人たちの文はわずかですが、彼らと同じように、少なくとも戦争の記憶を維持し
続けること、記憶を問い直し続けることで、平和への思いをたしかなものにできると思うのです。

引用文献

1)世界大百科事典、平凡社(1988)

2)中村隆英:昭和史T、東洋経済新聞社(1993)

3)歴史学研究会編:太平洋戦争史 5、青木書店(1973)

4)イアン・ブルマ:戦争の記憶、TBSブリタニカ(1994)

) 大岡昇平・埴谷雄高(ハニヤユタカ)二つの同時代史 岩波書店(1984)

6)サーラ・スレーリ:未来へ 朝日新聞(1997/4/17)

7)岸田 秀:『自殺』が映す日本文化、毎日新聞(1998/4/3

8)加藤周一:近代日本思想史講座V、P.326、筑摩書房(1959)

9)加藤周一:夕日妄語 濃い霧の中から、朝日新聞(1998/12/16

10)堤 清二:消費社会批判、岩波書店(1996)

11)小沢昭一:わた史発掘、文春文庫(1987)


    前に戻る