(1)−(16) 2004.6.24
(1)なんでも呑み込み、たちまち同化させてしまう東京という街のなかに入っても、不思議と関西人だけは、持ち前の色合いを失わないものだ。関西弁も強靱な生命力を持っている。言葉尻はいわゆる「標準語」になっても、イントネーションだけはけっして消えないから、すぐに関西出身だとわかる。
(宮部みゆき:火車、P.233、新潮社(1998))
(2)現在の東京は、人間が根をおろして生きることのできる土地ではなくなってしまっている。地味も消え、雨も降らず、耕す鍬もない荒れた畑だ。
ここにあるのは、大都会としての機能ばかりである。
それは、車とよく似ている。どれほど高級仕様の車でも、どれほど性能が素晴らしくても、そのなかだけで人間が生きることはできない。車はときどき乗りこみ、便利に使い、ときどき整備に出し、洗ってやって、寿命がきたり、飽きがきたりすれば買い替える。それだけのものだ。
東京も、それと同じだ。たまたま、この東京という車に匹敵するだけの性能の車がほかにはあまりないものだから−あっても、多少個性が強すぎるものだから−多くの人間に、ずっと使われているだけのことで、本来はとっ替えのきく備品みたいなものなのである。
買い替えのきくものに、人は根をおろさない。買い替えのきくものを、故郷とは呼ばない。
だから、今の東京にいる人間はみな一様に根無し草で、大部分は、親や、そのまた親が持っていた根っこの記憶をたよりに生きているのである。
だが、その根の多くはとっくに弱り果て、その呼ぶ声は、とうの昔に嗄れてしまった。だから、根無し草の人間が増える。
(同上、P.236)
(3)赤井川(あかいがわ)
駒ヶ岳西方の山地(標高600〜800m)に源を発し、駒ヶ岳西側山麓を南流し、じゅんさい沼から流出する宿野辺川と合流して大沼に注ぐ川。延長11.2Km。大沼国定公園内を流れ、大沼・じゅんさい沼を結ぶ流路として水量調節の役をなし、森町・七飯町の灌漑用水。赤井川の原語は、アイヌ語のフレペツ(赤い川の意)といわれる。森町に赤井川の字名があり、JR赤井川駅(1904年10月開通)もある。
(須藤隆仙監修:函館・道南大事典、P.7、図書刊行会(1985))
(4)駒ヶ岳(こまがだけ)
内浦湾南岸にある完新世の成層火山(海抜1133m)。昔は内浦岳といった。輝石安山岩の溶岩・軽石・泥流(岩屑流)堆積物などからなる。山頂に径2mの馬蹄型火口があり、北壁に砂原岳(1114m)、西壁に剣が峰(1140m)および南縁に隅田盛(892m)が連なる。火口原は1929(昭和4)年噴出の軽石で埋没し、中央に昭和4年大火口(直径250m、深さ80m)・瓢型火口・繭型火口があり、1942年の活動で開いた北北西−南南東にのびる1.8Kmの割れ目がある。基底直径約17Km。
寛永17年(1640)と安政3年(1856)の大噴火のあと、明治大正と小噴火が続き、1929年大噴火があった。伝説では室町時代に相原季胤 (?〜1513)が、矢越岬の海神を鎮めるためアイヌのメノコ(娘)十数人を海に沈め、アイヌの怨みをうけて攻められ、二人の娘とともに大沼に逃れ、三人で入水したという。このとき愛馬を山に放ち、以来その山を駒ヶ岳といったとする。文政8年(1825)に神馬が出没したとの話もある。実際は山の姿が馬に似ているので(上を、馬の背という)つけられた山名であろう。アイヌはカヤベヌプリといい、カヤベはカヤウンペシュ(帆のある崖)がなまったものだから、駒ヶ岳を帆をかけた船に見たてたかもしれぬとする説もある。またアイヌは、義経が昇天して島造りの神から火をもらい、その炭燼を投げたのがこの山に落ち、以来、焼け山になったといい、それ以前は蝦夷島に火がなかったとする。
(須藤隆仙監修:函館・道南大事典、P.172、図書刊行会(1985))
(5)(介護には)期限はないのだ。だから、生活を犠牲にするのではなくて、むしろ生活の一部にしてしまう、できたら、生活の楽しみにしてしまうくらいでなくてはいけない。そうでないと長続きしないからだ。
(三好春樹:元気がでる介護術、P.72、岩波アクティブ新書I(2002))
(6)介護と看護の違い
介護は安静看護とはまったく違うものだ。むしろいかに安静にしないで生活を活性化するかが求められているのだ。
介護とは、一人一人違った障害を持った人の個別の生活づくりをすることなのである。 (同上、P.86)
(7)老人を大事にするというのは、老人の生活習慣を大事にすることだ。
(同上、P.106)
(8)人のつき合いには季節がある(南方熊楠)
(9)この日この刻よく生きなむと
念ずなりいつとは知らずよく死なむため (鶴見和子)
(10)わたしたちの「国土」に和人は何百年も前から渡ってきていましたが、本格的に全面的に「侵略」したのは、今から百十年ほど前の明治になってからです。「北海道旧土人保護法」などという法律は、わたしたち狩猟民族としての基本的生活権−−どこでもいつでも自由に熊や鹿を狩り、鮭や鱒を獲ることができることを無視し、やせた劣悪な条件の土地を「給与」して、農耕を強制させて、わたしたちの自由をしばるものでした。また土地の「給与」という形で、土地の収奪も正当化しました。二風谷の周囲の山々も、いつのまにか日本国の「国有林」となり、その後、大財閥に払い下げられました。
(萱野 茂:アイヌの碑、P.76、朝日新聞社(1980))
(11)<わが国土、アイヌ・モシリ(人間の・静かな大地:北海道)を侵され、言葉を剥奪され、祖先の遺骨を盗られ、生きたアイヌの血を採られ。わずかに残っていた生活用具までも持ってゆかれた。いったいこれではアイヌ民族はどうなるのだ。アイヌ文化はどうなるのだ>
(同上、P.128)
(12)物も言はじ 声も出さじ
石はただ
全身をもって 己れを
語る
(同上、P.171 金田一京助の歌碑)
(13)わたしが北海道庁に対して意見を言う機会を得たとき、大略次のような提案をしつづけてきました。
「アイヌはアイヌ・モシリ、すなわち<日本人>が勝手に名づけた北海道を<日本国>へ売ったおぼえも、貸したおぼえもございません。しかし今となっては、北海道に住んでいる<日本人>を<日本国土>へ帰れと言っても、そう簡単に帰れるものではないことは承知しています。そんな実現不可能なことをわたしは言いません。
わたしは、今このアイヌ・モシリに住んでいるわたしたちも<日本人>も一緒になって、このアイヌ・モシリの自然を守りたい。今まで何かと差別されてきた先住者のわたしたちアイヌの生活向上のために、思い切った政策を実行して欲しい。
家を不自由している人には家を建てて入れること。向学心に燃えても家庭の経済的事情で進学できない人には国費を出してやること。数の少ないアイヌだけでは国会議員、道会議員を選出することができないので、それを選出できる法律や条例をつくること。アイヌ語を復活させ、アイヌ文化の大切さを教えるため、希望する地域にはアイヌ語教育を幼稚園、小・中学校、高校、大学を設置する。そして、これらに必要な経費は国や道が出す。元々の地主に今まで払わなかった年貢を払うつもりで出すこと・・・・・・」
(同上、P.200)
(14)ヒットラーの情報活動と、それをゲッペルスがどう生かしたかを『わが闘争』からピックアップある。
・宣伝は武器である。
・宣伝は大衆に対してのみ行う。
・大衆の付和雷同性をつかむ。
・大衆の英雄崇拝を利用する。
・宣伝は重要らしくみせる。
・大衆とは女性だ。
・大衆は感情と情緒で動く。
・宣伝は繰り返すことが重要。
こうして要約してみると、広告代理店とヒトラーがあまり違いのないことがわかる。・・ ゲッペルスが強調していることに、大衆は宣伝で動かし、そして知識階級には暴力で命令するというのがある。
こうした考え方でナチスは破滅に向かってゆくのだが、この考え方の「暴力」を「大金」に置き換えると、広告代理店の論理にそのまま適用してしまうのである。
(永六輔:昭和−僕の芸能私史、P.19、朝日新聞社(1999))
(15)(戦時中の情報局の検閲で)
高田保の脚本で
「接吻させてください」
「接吻させるなんて・・・・・・」
この接吻がカットされた。
「させてください」
「させるなんて・・・・・・」
もっとエロチックになったなんていう話も残っている。
(同上、P.37)
(16)言われた通りにすることが当時の生き方なのである。
「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ」
この年に出された戦陣訓(東条英機陸相の示達)
この言葉のために多くの生命が失われてしまった。
言われた通りにしたのである。
世界の常識とはかけ離れたところで戦っていた。
そして「死ね」といった東条英機は後に戦争裁判の被告席に座る。
(同上、P.55)