大沼・駒ヶ岳周辺の姿
駒ヶ岳(こまがだけ)
内浦湾南岸にある完新世の成層火山(海抜1133m)。昔は内浦岳といった。輝石安山岩の溶岩・軽石・泥流(岩屑流)堆積物などからなる。山頂に径2mの馬蹄型火口があり、北壁に砂原岳(1114m)、西壁に剣が峰(1140m)および南縁に隅田盛(892m)が連なる。火口原は1929(昭和4)年噴出の軽石で埋没し、中央に昭和4年大火口(直径250m、深さ80m)・瓢型火口・繭型火口があり、1942年の活動で開いた北北西−南南東にのびる1.8Kmの割れ目がある。基底直径約17Km。
寛永17年(1640)と安政3年(1856)の大噴火のあと、明治大正と小噴火が続き、1929年大噴火があった。伝説では室町時代に相原季胤 (?〜1513)が、矢越岬の海神を鎮めるためアイヌのメノコ(娘)十数人を海に沈め、アイヌの怨みをうけて攻められ、二人の娘とともに大沼に逃れ、三人で入水したという。このとき愛馬を山に放ち、以来その山を駒ヶ岳といったとする。文政8年(1825)に神馬が出没したとの話もある。実際は山の姿が馬に似ているので(上を、馬の背という)つけられた山名であろう。アイヌはカヤベヌプリといい、カヤベはカヤウンペシュ(帆のある崖)がなまったものだから、駒ヶ岳を帆をかけた船に見たてたかもしれぬとする説もある。またアイヌは、義経が昇天して島造りの神から火をもらい、その炭燼を投げたのがこの山に落ち、以来、焼け山になったといい、それ以前は蝦夷島に火がなかったとする。
(須藤隆仙監修:函館・道南大事典、P.172、図書刊行会(1985))