消えた女
                                           

                         西野 鷹志

 
 昼寝から目覚めた。さきほど入ったヒノキの湯船から
湯があふれでる音がきこえ、雑木林の間から午後のものうい陽が
障子に映えている。
大分の山里にひらけた湯布院温泉、玉の湯であった。
 離れにある露天風呂に足を向けた。朝から三風呂目だ。
湯がさらさら、ぬる目なのがいい。四肢を思いきりのばす。
僕以外に誰もいない。
湯につかっているだけで、世のぜいたくを独りじめにした思い。
陽がななめになってきた。素っ裸で体重計にのれば六十二キロちょうど、
まあまあだ。
 
 風にあたろうと読書室のわきの白いイスに座った。モーツアルトが流れている。
曲は、ディヴェルティメント。
ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロがからみあい、みやびやかに鳴っている。
身も心も雲にのった如くうきうきした僕にびったりだ。
玉の湯にモーツアルトがいい、とすすめたのが小林秀雄だ。
彼は好んでこの宿を訪れた。
僕はまだ一泊目だけれども、自然と文化への深い思い入れを
宿のそこかしこに感じる。
ここのご主人は、かなりの審美眼の持主だ。小林秀雄が名作「モオツァルト」で、
最上の音楽と評したモーツアルト。
だからこそ彼は、玉の湯の舞台にふさわしいとアドバイスしたのだろう。
 
 のびやかな旋律のなかに小さな物音がした。
ふりかえると女の横顔があった。こまかい手仕事に没頭している。
髪を結いあげたうなじが色っぽい。三十代の美しい女。
僕の存在など眼中にない。指輪かイヤリングを直しているのだろう。
夕食の席に間にあわせようとしているのか。
どんな連れがいるのだろうか。
じっと見つめる無遠慮をおぼえ、モーツアルトの世界にもどった。
弦がおわりピアノソナタがはじまった。
すでに女の姿は消えていた。
 モーツアルトの弦楽曲を耳にするたびに、彼女のうなじが目にうかぶ。

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