寒川の道    その2     2000年10月1日

 吊り橋の下の海を、泳いで渡る。朝8時を過ぎていた。
頑丈な鉄橋を架けた時、一夜にしてコンクリートの基礎
ごと流されたという。
 岩肌を「コ」の字にくり貫いた道の先に、
小さなトンネルがある。記録に残るだけで10人
以上の人が波にさらわれ、命を失っている。
多い時でも70人の村だから驚くべき数字だ。
 海面までロープで降り、又泳ぐ。昔は木の板を
渡していた。月のない闇夜は、提灯を下げて歩いた
のだろうか。
 こんな浅瀬の中を渡る。冬は辛いだろう。
昔は、コンクリートのブロックを敷いていたという。
 寒川まで、大小の岩がころがる道なき道だ。集落があった頃
住民皆が月一回、歩きやすいように手入れしていた。
 寒川に到着。もちろん誰もいない。山の斜面も緩やかになり 
開放的な空間だ。穴澗方面を望む。
 山から、こんこんと水が流れている。
こんな小川が三ヶ所以上ある。
 昔の船着き場と思われる。平磯が広がる。
 海に張り出した岩から、寒川集落跡を望む。山の斜面に段々畑
を作り野菜を育てた。海に白く見えるのは定置網のロープだ。
 集落の外れ。この先は、山が迫って険しい。
岬の先端は鞍懸岩。
 人間の住んだ名残りは、この石垣のみ。  三回目の寒川。今回は昼食を豪華(神戸牛、海の幸
などの寄鍋)に摂って、早めに戻った。
 持ち物の一部。青い袋は防水製のザック。
小型バーナー、シェラカップ、水中メガネ、水タンクなど。
この中にデジカメを入れる。
 三時近く、ペンギンズバレーに戻った。
金森で生ビールを飲む。
寒川探訪後記
 

   今回の主な目的の一つは、デジカメで村落跡をじっくり撮ることであった。わずかに残っていた家の柱も見当たらなくなり、
確実に自然回帰が進んでいた。又おびただしいゴミも、どこかに流されたのか少なくなった。マムシは今回も見かけなかった。
草むらを歩けば出会えるのかもしれない。天気の良い日は、確かにのどかで気持ちがよい。 でも電気も水道もなく、町まで危険な海岸を
小一時間も歩く辺境の地になぜ住み続けたのだろうか。
「寒川」の著者古庄さんは”故郷の富山と出稼ぎ先の樺太の中継地として便利だった”と言っている。
土地に安住する気持ちよりも、水の上を自由に往来する「海の遊牧民」としての性格が強かったのかもしれない。


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