五 稜 郭

       ― その生い立ちと構造 ―


誕生の背景

 五稜郭が建設された幕末という時代は、日本の歴史の動乱期であった。

勤皇、佐幕という国内の対立に加え、欧米列強からの開国要請が次第に強まるといった、

いわば内圧と外圧に大きく揺り動かされた時代であった。

函館戦争の舞台になった城郭であるが、むしろ外国に対する警備防衛のため建設された。

直接のきっかけは、安政元年(1854年)に、徳川幕府がアメリカのペリー提督との間で締結した
「日米和親条約」であった。これにより、下田とともに函館の開港が実現する。

条約締結からわずか一ヶ月後、ペリー艦隊は早くも函館の港に姿を現した。

ペリー提督は、「この港は、世界でもトップクラスの天然の良港である。」としてすっかり気に
入ったと言われる。黒船が現れると、町は大騒ぎとなった。

女や子供は姿を隠し、それに牛や酒までも見つからない場所に移した。家という家は戸を固く閉じて、
町は火の消えたような有様であった。

混乱したのは町民ばかりでなく、役人も同様であった。彼らは、大工を総動員して市中を覗かれない
ように海岸沿いに塀を巡らした。人々は塀の内側から、恐る恐る様子を眺めるだけだった。

その後の対応策として、幕府は警備体制の強化を急いだ。その中心となったのが弁天岬台場と
五稜郭の建設だった。

もともと函館の奉行所は、松前藩の時代から港に近い山麓の一角に置かれていたが、外国人の
居留にともない警備体制の不安が生まれた。

そこで移転、新築することになったのが、この五稜郭であった。

誕生の背景から従来の城と異なり。外国との関係を強く意識したものだった。設計したのは蘭学者の
武田斐三郎であった。彼は、五稜星形を組み合わせた平面形状をもつ西洋式築城法を採用した。
外国艦船の火砲に対抗するには、それが最も適している考えた。

安政四年(1857年)から工事が始まり、7年の歳月をかけて完成した。

それは明治維新の四年前だった。

設計者の武田が蘭学者ということもあり、長い間オランダ式城郭と考えられてきた。

ところがオランダには、同じ形式の城が存在しないことが判明した。

現在では築城家ヴォーバンの系統を引く、フランス式城郭と考えられている。

それを裏付ける歴史的背景として、当時入港していたフランスの軍艦コンスタンチーン号の乗組員が、
武田等にパリ周辺の城砦を教示していたことがあげられる。

 

五稜郭の地理的考察

 

現在の函館を上空から俯瞰する、と函館山と陸地が細い砂洲でつながり、扇を半開きしたように
町が広がっている。

その扇の中央、両方の海岸線からほぼ等距離の内陸部に五稜郭はある。

この当時、この辺りはネコヤナギが群生する湿地で人の近寄りにくい場所だった。

外国船の監視と外国人からの遮蔽を第一の目的として、この場所を決めたと思われる。





















 

規模と構成

 

現存する五稜郭の規模は、史跡指定面積約251000平方メートル、城郭内面積約125500平方メートル、
土塁高
57m,堀の深さ45m、堀巾約30mに及ぶ。

五稜星形を基本とし、南西部の大手門の位置に半月保と呼ばれる独立した土塁を持っている。また大手門と
裏門の内側には、見隠塁と呼ばれる石垣土塁があり、橋をわたって来る者の眼から内部を遮蔽している。

かっては奉行所を中心として、およそ20棟の付属建物(御備厩、給人長屋など)があり、その内兵糧庫一棟
だけが現存している。

北側の堀の外側には、同心長屋などの住居が100軒ほどあった。


 

奉行所の想定復元

 

西洋式城郭の中心であった奉行所は、木造の純日本式建物だった。

建物規模  建坪 約790坪 (約2600平方メートル)

現存する幕末期の写真では、玄関のある正面は壮麗な入母屋造りの屋根にシンボリックな太鼓櫓を載せた、
堂々たる建物である。

平面構成については、いくつかの資料により正確な復元が可能である。

しかし立面に関する資料は奉行所正面から撮影した古写真が残るだけで、それを手がかりに各部の高さを
類推する他ない。

コンピューターを駆使して様々な角度から検討した結果、次のような復元図が完成した。


                      正面の外観



                         平面図


                   間取り図


 

五稜郭の弁天岬台場との比較

 

ほぼ同じ頃建設された台場は、港の入口に築かれた要塞である。正六角形の平面をもつ施設で、石垣や
土塁の内側に砲台を並べ、外国艦の火器に対抗する目的で造られた。



                         弁天岬台場

 

    

   資料によると

 


工事費


      敷地

五稜郭   

    53114両     

  125500平方メートル

台場

    107277

   32400平方メートル

       

 

 

 

となり両者を単純に比較すると、単位面積あたりでは工事費は18になる。

 

工事費の比較

 

 

  当時の工法

  現代の工法

五稜郭

     93億円

     66億円

台場

    159億円

     63億円

 

     この時代の一両は現在の約18万円に相当する。

 

江戸期の工事単価見積もりを基に、当時の施工方法や盛土量を想定して積算すると、記録に残って
いる当時の工事費用と大差なかった。

敷地面積に対して台場の工事費が膨大になったのは、次のように考えられる。

土砂や捨石を函館山から運び、海底の暗礁を満潮面より1.2mの高さまで埋め立てている。

また基礎部分は暗礁を削り野面石を積み上げた。

その上に高さ10mまで盛り土し、外周を高さ9mの厚い石垣で固めた。

埋立てと盛り土の推定土量(254千立方メートル)は、五稜郭の盛り土量にほぼ匹敵する。

それに対し五稜郭はほぼ平坦な土地に堀を掘削しその土を盛り土して土塁を築いた。

石垣の高さも45m程度に抑えたので大幅に工事費を削減できた。

ところが両者を現代の工法で再現すると、工事費に大きな違いがなかった。

なおこの工事費には、奉行所の建設費は含まれていない。

 

石垣工事について

 

主塁石垣と見隠塁石垣は主に函館山の安山岩が使われた。

隣接する石の接合面をきれいに切り揃えて隙間なく積む方法(打ち込みハギ)が採られている。
また石垣の隅方は横目地を通す切り込みハギで積まれているが、これは一般的な城の積み方と同様である。

一方、堀の石垣には安山岩と河原石が使われ、石面を加工せずに野面積みされている。


  ****大林組の資料から文と絵を引用
 *****

 

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