五稜郭物語

                        石垣 福雄

五稜郭のあるあたりは、もとネコヤナギの多い野原で土地の人は柳野といっていた。

この柳野に城を作ろうと考えたのは徳川幕府である。それはなぜか。

鎖国を続けて来た徳川幕府も、安政元年(一八五四)米国のペリーの強硬な態度に

押切られて下田、箱館を開港したが、それ以前からロシヤの南下政策が露骨となり、

蝦夷地周辺がにわかに険悪になって来た。幕府は松前藩だけに防衛を任せておけずに

箱舘附近を幕府直轄地とし、幕府直属の「箱館奉行」を任命して、米、ロ等の対外交渉

に当たらせた。箱館奉行は刻々と緊迫する情勢からいつ外国が武力を行使するかという

不安から箱館附近の警備を急がねばならなかった。当時の箱館奉行所は港に近く、

傾斜地でまる見えのため敵艦の砲撃に堪え難いと考え、亀田に堅固な城を築き、そこに

移転すべきであると献策した。幕府はその献策に従い、柳野に城を築くことに決定した。
  
安政四年(一八六七)に着工し、予算十八万両余の大金をかけ、七年間かかって作り

上げたのが、「五稜郭」である。
 

工事請負は河津三郎太郎、設計監理は箱館奉行支配諸術調所教授役、武田斐三郎、

土木工事は松川弁之助、石工事は井上喜三郎、木工事は中川源蔵である。御用大工の

人数は毎日、五百人。土石工事に動員された人夫は盛んなときは一日五、六千人に

のぼったというから非常な大工事であった。

使用する石材は箱館山の安山岩を切り出して使ったが、隅角や「はね出し」など

重要な部分には、備前産(現在の岡山県)の花岡岩を使った。最初は石の刻み方も

丁寧であったが、後には資金が不足して赤川や、亀田川の川原から石を拾い葉集めて

代用した。今でも裏門のあたりの石垣が粗末なのはそのためである。

実際、現地に設計図を持参して見ると、その平面図の精巧なこと、五つの稜の角度、

それの外側の濠の石垣の角度や高さ等、当峙の測量技術も相当精巧だったことがうかがえる。

ことに正門の前の半月堡といわれる小島は目かくしである。ここに大砲を据えて敵の

攻撃を阻止し、戦不利となった時にはその後の斜面から砲を引きおろし二の橋を渡り、

本丸に入れる。本丸に乱入しようとする敵軍に対しては正面と両側から砲弾を浴びせる

構造になっている。

こうした全体構造はすべて設計者武田斐三郎の考案したものかともって思ったらそう

ではない。

専門家の調査によれば、「五稜郭」はオうンダ式の築城法で、折柄幕府軍に加担していた

フランス海軍から献上されたフランスの築城書を武田斐三郎がよく研究し、それを柳野に

実現させたのだという。

ヨーロッパは地続きの小国が長年、戦を繰返した土地だけに古来、各地に城が多い。

中世期ヨーロッパの城は、丸くて背の高い煉瓦作りの塔が多かった。しかし時移って、

火砲が使われ初めると塔は次第に低くなり、逆に火砲を塔上に据えて使うようになり、

十六世紀ごろになると、五稜郭のような角のある城郭がイタリーで考え出され、それが

次第に欧州各地に拡がった。十六世紀以来、オうンダがスペインに独立戦争を起す時に

なって市街地防衛のために現地の地形を利用して、五稜の城の外側に水濠を持つ城が考え

出された。

五稜郭の原型になったのはこのオランダ式築城法なのである。オランダのみならず、

フランス、デンマーク等にこの型の城が多い。私もデンマーク旅行の時、五稜郭と同様だが

小型の城が濠の水草も茂るに任せた古城のほとりで、あまりの類似に驚いたことがある。

郭内に聳える松の大樹や、郭外に郭を囲むように直線状に生えていた松林(これが次第

に切られて、今は東高校のグランド沿いにあるのが残っているだけ)は奉行所役人が佐渡

から苗を取り寄せ、七飯苗圃に植え、それを移植して、城の目隠しにしたものであるが、

実地の箱館戦争の際にはほとんど役に立たなかった。

  箱館戦争と榎本武揚

慶応四年(一八六八)徳川慶喜は大政を奉還した。いわゆる明治維新である。

後代の私共は簡単に明治維新前は徳川幕府の時代で、それ以後は明治新政府の峙代と考えるが、

時代はそうキパッと変わるものではない。倒幕の薩摩、長州連合軍が鳥羽伏見の戦に勝ち、江戸を

無血占領した後にも、三百年続いた幕府勢力が一挙に消滅するわけがない。東北の雄、会津が徹底

抗戦を叫び、幕府海軍が東京湾に無傷で残っている状態では諸外国も明治新政府を簡単に承認はし

なかった。現にフランスは徳川幕府を正統な日本政府と信じ、薩長を叛乱軍と考え、暮府に軍事顧

問を送って応援していたのである。薩長は早いうちにこの幕軍勢力を全滅させなくてはならないと

考えた。幸いにも薩長には外国の新兵器を持ち、勢いに乗っている軍隊がある。ただ新政府軍の弱

点は海軍力が弱いことである。諸藩の持つ軍艦の寄せ集めでは到底幕府梅軍に太刀打ちはできない

状態であった。

幕府は諸外国の侵略から国を守るために、この数年間、海軍力の増強に努めて来た。特にオラン

ダに発注した軍艦「開陽」は四年の歳月と百八十ギルダーの巨費を投じただけあって二十六門の大

砲を有する二五九○トンの新鋭艦であって、榎本武揚が直接オランダに留学し、その操船に熟練し

ていたのが強味であった。

榎本武揚はオランダ製新鏡艦、開陽の他に回天、幡龍、干代田形、富士、翔鶴、朝陽、観光、咸臨

計九隻の無敵艦隊を掌握し、それに彰義隊生き残りの武士を加え、会津をはじめ東北諸藩の勢力

を結集し、薩長を主とする倒幕軍を撃破する作戦を練っていた。その時、彼の頭に閃いたのは箱館

である。そこには幕府が築造した近代的な洋城「五稜郭」がある。それを占拠し、箱館を軍港とし

たら、劣勢な海軍しか持たない薩長軍は津軽梅峡を渡ることは不可能である。その間に蝦夷地を共

和国とし、徳川家から領主を迎えて、徳川家の劣勢挽回を計ろう。彼は決然として箱館に向って出

航した。

途中、仙台で会津の残党や、大鳥圭介の伝習隊、土方歳三の新撰組等の兵力を結集し、意気軒昂、

北上して噴火湾の鷲ノ木(現森町)に上陸した。彼は全軍を二手に分け、本隊は大沼、峠下を経て

箱館に、支隊は土方歳三を隊長に鹿部、川汲を経由して、箱館を突かせた。当時五稜郭にいた箱館

奉行、清水谷公考は急襲に驚き、津軽に逃れたので、榎本軍は楽々五稜郭に入城した。しかし松前

藩は新政府軍に加担していたので、まず松前を討たねばならぬ。海陸から松前を攻め、中山峠を越

えて江差を攻めた。松前藩主第十八代徳宏は危険を察し、熊石から津軽に渡り、弘前で病没した。

榎本軍は十二日、祝砲を打って全島平定を祝した。しかし、その前月十一月十五日榎本軍頼みの軍

艦、開陽丸が暴風のため江差沖で座礁、沈没したのは大打撃であった。

一方、政府軍は榎本軍北上を知り、至急海軍力の増強を計った。第一にかつて旧幕府が米国に発

注していた甲鉄艦、ジャクソンが既に完成し、日本に到着していたのを八方説得して明治元年十二

月新政府軍に編入させ、明治二年春を期し海軍力を結集し大挙箱館に向かった。四月九日桧山の乙

部に上陸し、江差、松前を奪還し、箱館に向かった。榎本軍が主力艦の開陽を失った傷手は大きく、

それに対し政府軍は新鋭艦の威力を存分に発揮したので、海軍力は完全に逆転し、榎本軍は各地の

戦に敗れ、戦局は急激に悪化した。

矢不来(現・上磯町)の激戦を勝ち抜いた政府軍は大部隊を五稜郭に向ける一方、別働隊が船で

箱館山の背後に回り、寒川に上陸し、急斜面をよじ登り、十一日、山上から攻撃した。榎本軍は不

意を突かれて敗走し、弁天砲台は孤立状態となった。弁天危うしの報に決死隊を率いて奪回に

向かった土方歳三が途中、一本木(現・若松町)で戦死した。

五稜郭の前衛陣地、千代ケ岱は怒濤の如く押寄せる政府軍を抑え切れず、遂に中島三郎助父子が

壮烈な戦死を遂げて陥落した。

政府軍の総師、黒田清隆は、絶対優勢と見て使者を送り、降伏を勧告した。書面にいわく。「我

が軍はすでに弁天砲台と千代ケ岱陣屋を陥落させた。明日は五稜郭に総攻撃をかけるつもりだが、

そちらの食糧、弾薬等不足ならば送るが、どうか」と、この申入れに対し、榎本はその厚意は深く

感謝したが、降伏は拒絶した。そして彼の手許にある貴重な「海律全書」を黒田に送った。

これは榎本がオランダ留学の際、ハーグ大学のフレデリック教授が使った教科書で、原著はフラ

ンスのオルトラン海軍大佐著の「海の外交と国際法」でオランダ語訳本である。模本は日本に唯一

冊のこの貴重本が戦火に灰となることを残念に思い、黒田に贈ったのである。黒田は榎本の厚意を

謝するために酒五樽を使者に託して送り、再度降伏を勧告した。



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